2014年8月25日月曜日

ウルティマVIII(41)

ウルティマVIIIに手を出したのが1996年だったと思います。DOS/V英語版でネクロマンサーの儀式直前まで進んで止めてしまいました。そして2014年にやっとペガンから脱出成功。18年間かかりました。
ウルティマIV以降、単純な勧善懲悪ではなく、様々な倫理感を試されるのがこのシリーズの特長です。ウルティマVIIIもそうです。
ペガンはアバタールという称号は全く通用しません。価値観もそこには見出されません。ガーディアンが作った4人の巨人が秩序を統治している世界です。ストーリーの最初こそは悪徳政治、恐怖政治を正します。世を正してペガンに徳の世界を作り出すことが目的のようにも感じます。その目的を達成することが長期的に見てアバタールのすることかもしれません。しかしそれが(ゲームをクリアするための)目的ではないことは明らかです。ペガンから脱出することが目的です。
目的を果たすためには行動しなければなりません。特に早急に目的を果たすには過激な行動を求められます。その行動は善か悪かは判断できません。その行動が社会や自然に与える影響はわかりません。しかしその行動はゲーム世界の範囲において、あるいはゲームをクリアする目的において、十分な指示が与えられます。そして4人の巨人を倒すことが目的達成のために必要な筋道として提示されます。
結果としてペガンの秩序は崩壊します。アバタールの正義はペガンでは悪でした。目的を達するためには他の方法があったかもしれません。しかしその方法は許してもらえません。
ガーディアンはアバタールが脱出することができるとわかっていたと考えるべきです。ガーディアンはアバタールにペガン脱出を体験させるためにペガンに落としたと考えるべきです。決してペガンに閉じ込めようとしたわけではない。もし閉じ込めることが目的ならペガンの秩序に任せずに、ガーディアンはいくらでも手出しができたはずです。
アバタールにとって苦い体験をもって、IXへと続きます。

アクションを重視したためか、消化不良なシナリオであることは残念です。もっと深い描写ができたはずなのに。せっかくグラフィックが向上したから。でもそれが中途半端なアクションにしか活用できていないことが非常に残念です。むつかしさをアクションに求めるのではなく、ストーリーに求めてほしかった。せっかく苦労して徳の世界を作り出すためのきっかけを作ったのに、アバタールのちょっとした行動により水の泡になり崩壊していく。そのギャップがVIIIのポイントだと思うんですけど。時代の波に飲まれたのでしょうかね。

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